音痴の稽古場日誌

虚仮華紙×劇団森企画公演「音痴の夢を観る観るうちに、遠方の遊星になるとゆう」の稽古記録です

視る(奥)

最近、私の視界は実にわがままだなぁと思いはじめまして、というのも、私は(というよりも人間は)いついかなる時でも、無意識に見たいものを選択しているのだと感じはじめたからです。

例えば、女性を見る時(というのも、今私の目の前には美しい見知らぬ女性が座っています。電車に揺られて。)、私は彼女の見るからに丁寧に手入れをされたサラサラの髪にかかる天使の輪を一番に目に入れて、ほうと勝手に堪能するのですが、ある人の目に最初に映るのは、彼女のほんの少しだけ丸みを帯びた、可愛らしい稜線を描く鼻なのかもしれません。


今私の目に(あるいはあなたの目に)映るものは、私(あなた)が今まで見てきたもの、触れてきた価値観、身を任せてきた文脈が薄く薄く、されど幾重にも重なった、そのフィルターを通したものなのです。


また、あるとき、我々の脳は、目に映ったものから、過去に見た、自分にとって好ましい、あるいは厭わしい、特別な感情を引き起こさせるものを、ひきずりだしてくることがあります。


例えば彼女(先程の彼女でなく、想像上の、だれでもない彼女です)の、乾燥でひび割れた赤い唇を見たときに、私が、熟れきってはちきれたざくろを連想したならば、それはきっと何年たっても彼女のことを、きっと特別に思い出す合図なのだと思います。


例えばあなた(今この文章を読んでいるあなたです)が、ふらりと(あるいはしっかりと予約をして)、この劇をご覧になって、あなたの記憶のアーカイブからなにがしか引き出したり、その後のあなたの人生の折に、あなたのそのわがままな目が透明な何かを捉えて、この劇のことを思い出してくれるような、常にそういう高慢で大きすぎる野望をもちながら表現をせねばと、そういう心持ちで、取り組もうという、そういう次第であります。